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FCAとは

ごあいさつ


フジムラコンテンポラリーアートとは 1990年よりアメリカ ニューヨークを中心として、福岡/横浜を含め、約四半世紀もの間、アート業界に携わってきました。
2007年には、国際色豊かなここ横浜元町のクラフトマンシップストリートに、FUJIMURA CONTEMPORARY ART.[フジムラコンテンポラリーアート]を開廊いたしました。

当ギャラリーは、
アーティストの発掘、育成、プロモーション
ギャラリー、レンタルギャラリーの運営
催事イベントの全国展開
海外ギャラリーとの提携

以上の4つの業務を柱にトータルプロモーションのプロデュースを行うアートギャラリーです。特に、作家の発掘・育成・プロモーションにおいては、複数の実績がございます。作家の可能性を最大限引き出しながら、固定概念を覆す新作の発表。また、作家の得意とする作品手法に新しいアイデアをプラスし、今までにない作風、あるいはジャンルを超えた作品制作など、作家一人では挑戦しきれなかったであろう未知の領域に育成していき、それをプロモーション致します。

横浜元町という地域に密着しながらもグローバルな領域で作品(作家)を取り扱うという特性を活かし、これからも成長して参りますので、今後ともフジムラコンテンポラリーアートをどうぞ宜しくお願い申し上げます。

フジムラコンテンポラリーアート
ギャラリスト 藤村武

FCAのテーマカラー


FUJIMURA CONTEMPORARY ART.のテーマカラー テーマカラー:エメラルドグリーン
⇒美しさと癒しを表現する色。

『エメラルド』とは鉱石に由来する言葉ですが、鉱石のそれを指すだけではなく、「エメラルドのような…」という美しさの代名詞としても長い間使われてきました。
また、『グリーン』は、古来より“瑞々しさ”を暗示する色として使われてきました。自然を表す色から、転じて“癒し”の色として世界中の人から好まれる色となっています。

フジムラコンテンポラリーアートは、“美しさ(エメラルド)”“癒し(グリーン)”というアートの本質を常に追求しているギャラリーです。

FCAの取り組み

年間10件程の企画展を開催

グループ展、最新作発表、新しい作家紹介など中心に、毎月企画内容を変えて展示しています。

(国内)作家来場展

企画展開催中は、ひと月に10回近く来場いただき制作秘話を伺いながら、時にはライブペインティングなどのパフォーマンスを行いながら作品紹介を行うこともあります。既存のアートではなく、今はまだ無きアートのジャンルを目指し、開拓精神を持った企画展を開催するのがフジムラコンテンポラリーアートの特性です。

(海外)作家来日展

フジムラコンテンポラリーアートと契約している海外作家の来日展という形をとり、皆様の前で最新作披露の場を持ち、パーティやトークショー、ライブペインティングなどのイベントを開催しています。

お客様との海外ツアー

年に1度、お客様と海外ツアーを実施しています。フジムラコンテンポラリーアートでは、「お客様と分かち合う海外体験」を重要なテーマとしています。時には、海外アーティストのアトリエを訪問。海外の文化や伝統と合わせ、アトリエを訪問することにより、作家の魂宿る世界を垣間見るようなツアーです。一般的な海外旅行では経験できないフジムラコンテンポラリーアートオリジナルの海外ツアーということで、ご参加者の方々には好評頂いています。

ギャラリー周辺について

元町プラザ辺りから見た元町ショッピングストリート

横浜村から国際貿易都市へ


半農半漁の貧しい寒村だった横浜村[現:山下町あたり]は、1854年の開国、そして1859年の横浜開港を発端に、西欧の文化が一気に集中するところとなり急成長を遂げました。

横浜開港に伴う居留地(山下居留地)造成の影響で、1860年、横浜村の住民は立ち退き命令により現在の元町へ移されました。その地は横浜本村(横浜元村)と呼ばれ、その後「横浜元町」へ改称したのが元町の起源とされています。

さらに山手居留地が造られると、商業区域の山下と住宅区域の山手の通り道にあたる元町では、居留外国人相手の商売が盛んに行われるようになり、これが元町商店街の誕生へと繋がることとなります。幕末から明治維新にかけて大きく変貌を遂げ、文明開化を体現した街が横浜元町と言えます。

フジムラコンテンポラリーアート開廊


横浜開港から148年後の2007年、元町のクラフトマンシップストリートにアートギャラリーフジムラコンテンポラリーアートを開廊しました。ギャラリーの周辺には異国情緒あふれる街並や歴史の断片が今も色濃く残っています。近隣の丘にある「元町百段公園」もその一つ。

関東大震災で崩壊するまでは、開港に伴い横浜村から移された「浅間神社」が祭られ、丘裾から続く階段とともに住民やから親しまれていた場所で、その歴史を留めておくという思いで作られた公園です。

他にも数多くの史跡や見どころがあります。当ギャラリーご来場のついでに、千万無量の歴史がカタチとして残る元町(とその周辺)を散策してみてはいかがでしょうか。

前田橋から見た元町百段

現在の元町2丁目から山頂まで続く急勾配の石段。101段あったことから「百段」として親しまれていた。関東大震災で崩壊。
前田橋から見た元町百段

元町百段からの関内地区

元町の鎮守である厳島神社の末社「浅間神社」が祭られ、小さな茶屋もあり、眺望も良かったことから外国人の観光客も多く訪れていた。
元町百段からの関内地区

横浜元町周辺の歴史

  • 黒船来航

    ▼1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、マシュー・ペリー提督率いるアメリカ海軍の艦隊4隻が、開国を求めて江戸湾浦賀[現:横須賀市浦賀]に出現。開国要求の大統領国書を渡すために6日後、久里浜へ上陸。幕府に返答猶予を1年と告げ、日本を離れる。
  • 外国人墓地の始まり

    横浜外国人墓地 -The Yokohama Foreign General Cemetery-
    ▼ペリーが再来航し、長期に及ぶ協議の末、幕府はアメリカからの開国要求を受け入れる。また、ペリーは3月31日(嘉永7年3月3日)に横浜村へ上陸すると、その後、日米和親条約が締結され、約200年続いた鎖国が終わりを迎え、日本は開国に向け動き始める。

    ▼この再来航の際、艦隊乗組員がマストから転落死してしまう。ペリーはこの水兵の埋葬地とアメリカ人用の墓地を幕府に要求し、海の見える場所という意向に合致した横浜村の増徳院境内の一部が提供された。これが横浜山手の外国人墓地の起源となる[現:元町プラザの場所]。
  • 横浜開港

    横浜開港 -Opening the Port-
    ▼1859年、日米修好通商条約により5都市の開港が決定(横浜、函館、新潟、神戸、長崎)。
    当時栄えていたのは東海道筋の神奈川宿付近[現:神奈川区神奈川本町付近]だったが、日本人との軋轢を危惧した幕府は、外国人を一箇所に押し込むため街道筋から外れた貧しい漁村の横浜村を一方的に指定。

    ▼幕府により開港場建設が行われ、1859年7月1日(安政6年6月2日)、横浜港が開港。2本の突堤(東波止場・西波止場)があり、数年後、東波止場が弓なりの形に築造される。この形状が「象の鼻」パークと呼ばれる所以。
  • “横浜元町”誕生

    ▼山下居留地造成のため、横浜村の農民に山手の裾[現:元町]への退去命令が出る。また、外国人居留地と住民移住地を隔離するため、間に新しく堀割[現:堀川]が掘られ、元町橋[現:前田橋]と谷町橋[現:谷戸橋]が架設される。翌年、西の橋が架橋。
    移住させられた村人は、村から市街地へと変貌していく横浜村に対して「もともとの横浜村はここだ」と言う意味を込めてこの地を「横浜元村(本村)」と呼び、それが現在の元町という地名に変化したと言われている。

    ▼居留地にあった浅間神社が元町2丁目と3丁目の間にある山頂[現:百段公園]へ移され、百段坂と呼ばれる石段も築かれる。
  • 関内と関外

    ▽横浜の開港場は、海と川と堀割で囲まれており、横浜港の警護目的で吉田橋のたもとに関門(関所の様なもの)を設け不審人物を取り締まっていた。後にすべての橋にも関門が設けられるが、この関門の内側を関内、外側を関外と呼ぶようになったのが由来と言われている。
  • 横浜新田競馬場開設

    横浜競馬場遺構 -Negishi Racecourse-
    ▼日本初の洋式競馬場が仮設で作られる。この年に行われた競馬は、公式な組織・運営規則をもって行われた日本初の洋式競馬である。仮設のため予定通り廃止されるものの、1866年には、根岸に常設競馬場としては日本初の横浜競馬場が誕生する。
  • 山手居留地造成

    ▼居留地の人口増加につれ、幕府は横浜新田[現:横浜中華街一帯]を整備して新居留地とすることを考えたが、外国人は水田の埋立地であるこの湿地を嫌い、逆に乾地で土地が広く眺望も良い山手を求めた。幕府は容易に認めようとしなかったものの、1862年の生麦事件などを契機に、イギリスとフランスの軍隊は居留民保護と居留地防衛を名目として山手の丘[現:港の見える丘公園付近]に駐留するようになり、これが山手居留地の誕生へと繋がる。
    高台にあるため“山手”と呼ばれ、その山の下にあるため“山下”と呼ばれるようになる。
    ▼1867年11月9日(慶応3年10月14日)、第15代将軍徳川慶喜が政権を明治天皇に返上(大政奉還) ▼1868年(明治元年)、江戸が東京に改められ、元号も明治へ。天皇一代につき年号は一つとなる。 ▼1872年(明治5年)、新橋~横浜間の鉄道開通。
  • 横浜中華街の誕生

    横浜中華街/関帝廟 -Kanteibyo Temple in Yokohama Chinatown-
    ▽アメリカ・イギリス・フランスなど諸外国の商人たちは横浜進出において、取引に中国人を連れてきていた。開国当時すでに西洋との取引があった中国人は、西洋人とコミュニケーションを取ることができ、また日本人とは漢字で筆談することができたため、取引仲介者として重要な役割を占めるようになり、加えて中国人商人や貿易商の増加も相まって、横浜新田を中心に次第に華僑社会を形成し始めることとなる。

    居留地135番地[現:山下町公園]は、1863年、初めて中国人が借りた場所と言われている。
  • 斜めな横浜中華街

    ▽みなとみらい地区は埋立地として有名であるが、現在の関内-伊勢佐木町-吉野町あたりも江戸時代前期までは海(入海)で、すべて埋め立てられた地である。

    1667年に吉田新田が完成すると、次に横浜新田(1797年開発)が湾の地形に沿うように埋め立てられ、水田のあぜ道が整備される。その後、湾全体が埋め立てられ、横浜新田だけが斜めに傾いたまま、あぜ道に沿って街路が形成されていく。
    横浜 埋め立ての流れ(遷移)
    横浜 埋め立ての流れ(比較)
  • 元町薬師

    ▼この年に始まった元町薬師の縁日は増徳院薬師堂前の通りで開かれ、浴衣姿の外国人や外国船の船員達が多く見られた。明治後期から大正期にかけては、元町薬師、野毛山不動、磯子の岡村天神が横浜の三大縁日として賑わいを見せる。
    男女の仲を結ぶことから元町薬師は「色薬師」と呼ばれることもあった。
    • 関東大震災での崩壊後、増徳院は横浜市南区平楽に移される。
    • 1931年(昭和6年)、跡地に元町本堂や薬師堂、地蔵堂が再建される。
    • 1945年(昭和20年)5月29日、第二次世界大戦における横浜大空襲で崩壊。
    • 1972年(昭和47年)、現在の場所[元町1丁目13番地]に再建される。
  • 元町厳島神社誕生

    元町厳島神社 -Motomachi Itsukushima Shrine-
    ▼増徳院仮殿に奉安していたものの明治維新の神仏混淆の禁止により増徳院から分離し、元町厳島神社として元町1丁目15番地に社殿を造営、元町の鎮守様となる。

    • 1923年(大正12年)、関東大震災で焼失するも、のちに仮殿を建設。
    • 昭和初期、現在の場所[元町5丁目208番地]に遷座し再建される。
    • 1945年(昭和20年)5月29日、第二次世界大戦における横浜大空襲で崩壊。
    • 1961年(昭和36年)、鉄筋コンクリート造りの社殿として再建される。
  • 水屋敷と西洋瓦工場

    ▼フランス人アルフレッド・ジェラールによって西洋瓦・レンガ工場が建設される[現:元町プール]。
    もともとは池ノ谷戸の湧水[現:中区にある打越湧水]を使った給水業を営んでおり、新たな水源地として確保した場所に貯水施設を建設した(通称:水屋敷)。
    水屋敷の地下貯水槽跡は整備され今も元町公園の入口に残されている。また公園内にあるプールの管理棟は、関東大震災の後にジェラールのレンガ工場をイメージして建てられたもの。

    ▼1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法公布。 ▼1894年(明治27年)8月1日、日清戦争勃発。 ▼1904年(明治37年)2月10日、日露戦争勃発。 ▼1912年(明治45年)4月14日、イギリスの豪華客船タイタニック号、初航海で沈没。 ▼同年7月30日、明治天皇崩御。元号は明治から大正へ。 ▼1914年(大正3年)7月28日、第一次世界大戦勃発。
    ジェラール水屋敷地下貯水槽 -Alfred Gerard's waterworks-
    元町公園プール管理棟 -Motomachi Swimming Pool, Administration Office-
  • 横浜彼我公園竣工

    ▼1876年(明治9年)、横浜スタジアムの起源となる、居留外国人用のクリケットグラウンドを備えた横浜彼我公園(ひがこうえん)が竣工。居留地廃止後の1909年、横浜公園に改称。

    • 1929年(昭和4年)、関東大震災復興事業の一環として横浜公園球場が竣工。
    • 1934年(昭和9年)、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリックら米大リーグオールスター来日。
    • 1955年(昭和30年)、終戦で駐留軍に接収され「ゲーリック球場」となっていた名称が、接収解除の後「横浜公園平和野球場」と改称。
    • 1978年(昭和53年)4月4日、日本初の多目的スタジアムである横浜スタジアムが、横浜大洋[現:横浜DeNAベイスターズ]vs 巨人でこけら落とし。
    横浜公園/横浜スタジアム -Yokohama Park/Yokohama Stadium-
  • 大正活映撮影所設立

    大正活映撮影所碑 -The Monument of Taisho Katsuei Studio-
    ▼4月、神奈川区子安を埋め立て、アサノセメントを創始した浅野財閥総帥の子息が、無声映画の製作・配給会社「大正活動写真株式会社」を設立。山下町31番地[現:元町1丁目31番地。ブラッスリー・アルティザン]に本社を、山下町77番地[現:元町公園]に撮影所を置く。

    活動期間は3年という短い間だったものの、初めて財界の資本が投入されたこと、ハリウッドで修行したトーマス栗原を監督に、また谷崎潤一郎を脚本顧問に招聘したことなど、近代的な映画製作を開始した画期的な企業であった。
  • 関東大震災

    ▼1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、神奈川県相模湾北部を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が発生。
    横浜市内の死者・行方不明者数26,623人。神奈川県下に戒厳令が出る。元町百段や増徳院、元町厳島神社、ジェラール水屋敷、レンガ工場など全滅。

    ▼1926年(大正15年)12月25日、大正天皇崩御。元号は大正から昭和へ。
  • ホテルニューグランド誕生

    ホテルニューグランド -HOTEL NEW GRAND-
    ▼1927年(昭和2年)12月1日、関東大震災による瓦礫の街から国際都市横浜への復興をかかげ、官民一体となった建設計画によりホテルニューグランドが開業。ホテル名はなかなか決まらなかったものの、震災前に横浜を代表した外国人向けホテル「グランドホテル(1893年創業-1927年解散)」の名を蘇らせようという思いから決定したと伝えられている。
    GHQのマッカーサー元帥(315号室)や『鞍馬天狗』『霧笛(※)』の著者で有名な横浜市出身の作家大佛次郎氏(318号室)をはじめ、日本だけではなく世界中の著名人が泊まったとされるクラシックホテルの代表格。 (※)フレンチレストラン 横濱元町 霧笛楼の由来となった小説。
  • 山手隧道開通

    ▼関東大震災前より計画はあったものの、震災の復興事業として建設され、1928年(昭和3年)3月16日に開通式典が行われる。当時の道路トンネルの幅員としては日本最大であった。
    鉄道用であった隣接する本牧隧道は、1972年の市電廃止に伴い第二山手隧道へと改称される。

    ▼1929年(昭和4年)10月24日、世界大恐慌突入。
  • 山下公園開園

    ▼関東大震災の瓦礫を埋め立てた山下公園がようやく完成し、1930年(昭和5年)3月15日、開園を迎える。横浜港に入港する船からは山下公園越しに雪を被った富士山が見え、船乗りの間で世界三大美港の一つと言われるように。

    その1ヶ月後に横浜船渠[現:みなとみらいのメモリアルパークおよびドックヤードガーデン]で氷川丸が完成し、5月17日にはシアトルに向けて処女航海に出帆する。

    ▼1932年(昭和7年)7月2日、代官坂隧道開通。 ▼1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争勃発。
    山下公園 -Yamashita Park-
    氷川丸 -NYK Hikawamaru-
  • 横浜大空襲

    ▼1945年(昭和20年)5月29日午前9時過ぎ、当時世界最大級のB29重爆撃機517機とP51随伴戦闘機101機の計618機が横浜に襲来し、約43万発(2570トン)もの焼夷弾を絨毯爆撃し続けること1時間余り、8,000人~10,000人ともいわれる命が奪われる。
    市街地は阿鼻叫喚の地獄絵図で、特に被害が甚大な神奈川区反町、保土ヶ谷区星川町、南区真金地区を含む市域の約30%が焼け野原となる。

    ▼同年8月6日に広島、8月9日に長崎へ原子爆弾が投下される。 ▼8月15日、ポツダム宣言を受諾し、終戦。 ▼8月30日、マッカーサー元帥がホテルニューグランドに入る。
  • クリフサイド開業

    ▼終戦の翌年、1946年(昭和21年)8月2日に山手舞踏場クリフサイドが開業する。多くのミュージシャンが巣立っていったという歴史ある舞台で、横浜に唯一残るダンスホール。

    ▼同年11月3日、日本国憲法公布、翌年5月3日施行。
  • 横浜マリンタワー完成

    横浜マリンタワー -Yokohama Marine Tower-
    ▼横浜開港100周年記念事業の一環として横浜港を象徴するモニュメントの建設が計画され、着工から約2年後の1961年(昭和36年)1月15日、当時世界で最も高い灯台として横浜マリンタワーが開業。

    ▼5月17日、前年に最後の航海を終えて帰港していた氷川丸が山下公園に係留される。

    ▼6月、戦後仮殿だった元町厳島神社の拝殿再建が、コンクリート建て神明造りで完成する。

    ▼9月28日~10月2日にかけて、配給切符の割当や割当衣料をまとめて仕入れたりする組織「火曜会」に加盟する28店舗がチャーミングセールと銘打って謝恩大売り出しを実施する。これが「元町チャーミングセール」の始まりとなる。
  • 港の見える丘公園開園

    港の見える丘公園 -Harbor View Park (Minato-no-Mieru Oka Koen)-
    ▼1962年(昭和37年)5月8日、戦後の流行歌「港が見える丘」にちなんだ公園として港の見える丘公園が開園。

    居留地時代、イギリスとフランスの軍隊が駐留していた関係で、園内にはイギリス山地区・フランス山地区(1972年開園、100年ぶりに解放され開園)があり、ゆかりの建物やガーデン、名残の遺構なども見られる。園内には他にも近代文学館や大佛次郎記念館も併設されている。
    近隣では、明治期のアメリカ公使館ゆかりの地がアメリカ山公園、イタリア領事館ゆかりの地が山手イタリア山庭園として整備されている。
    ▼1963年(昭和38年)11月22日、ジョン・F・ケネディ米大統領暗殺。
  • 石川町駅開業

    ▼1964年(昭和39年)5月19日、国鉄根岸線(桜木町-磯子)の開通に伴い、石川町駅が開業。それまで元町への交通アクセスは市電(市バス)のみで、陸の孤島とも言われていたが国鉄の乗り入れによって劇的に様変わりすることとなる。のちに大船まで延伸すると、石川町駅の平日一日乗降客数は約70,000人(現在の2倍以上)にものぼり、チャーミングセール期間中は1.5倍増しとなるほど栄える。
    「石川町」の名前は、横浜村村長の石川徳右衛門が由来と言われている。また駅舎は、元町と中華街の両者の利便性を考慮し川をまたいで作られている。
    ▼10月1日、東海道新幹線開業。 ▼東海道新幹線開業9日後の10月10日、東京オリンピック開幕。 ▼1968年(昭和43年)いしだあゆみ「ブルーライトヨコハマ」が流行。 ▼1969年(昭和44年)7月20日、アポロ11号、月面着陸。 ▼1970年(昭和45年)3月14日、日本万国博覧会が大阪で開催(万博大阪) ▼同年3月17日、国鉄根岸線、磯子-洋光台間が延伸開業。 ▼1972年(昭和47年)12月3日、増徳院跡地に元町プラザがオープン。 ▼同年12月16日、横浜市営地下鉄(上大岡-伊勢佐木長者町)開業。 ▼1973年(昭和48年)4月9日、国鉄根岸線、洋光台-大船間が延伸開業。 ▼同年10月、第四次中東戦争勃発の影響で、第一次オイルショックに突入。
  • 百段公園完成

    百段公園 -Hyakudan Park-
    ▼1986年(昭和61年)6月、関東大震災で崩落した元町百段の歴史をとどめるため、浅間神社跡地に百段公園が整備される。

    ▼同月、横浜人形の家が完成。山下公園へ続くポーリン橋、港の見える丘公園に続くフランス橋が架橋。

    ▼1987年(昭和62年)4月1日、国鉄民営化により、JR発足。 ▼1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇崩御。元号は昭和から平成へ。
  • 横浜ベイブリッジ開通

    横浜ベイブリッジ -Yokohama Bay Bridge-
    ▼1989年(平成元年)9月27日、高度経済成長期によって悪化した横浜市街地における渋滞解消を目的に計画された横浜ベイブリッジが開通。本牧埠頭A突堤から大黒埠頭までを結び、上層部が首都高速湾岸線で、その下に国道357号線(2004年開通)が走っている。

    海面からの高さは55mで、当時の豪華客船がくぐれる高さで設計されているものの、近年では巨大化が進み、この横浜ベイブリッジをくぐれないため国際客船ターミナル「大さん橋」に寄港できずに、大黒埠頭に入港することがある。5万トンクラスのワールドクルーズ船の寄港により数億円程の経済効果を見込めるものの、貨物専用で立地の悪い大黒埠頭では難しいため、代替案も検討され始めている。

    ■日本最大豪華客船(2015年現在)
    ・飛鳥II…総トン数5万142トン、全長241m、高さ45m、旅客数872名、乗組員約470名

    ■世界最大豪華客船(2015年現在)
    ・オアシス・オブ・ザ・シーズ…総トン数22万5282トン、全長361m、高さ72m、旅客数最大6,300人、乗組員2,160名
  • エリスマン邸復元

    ▼1926年、山手127番地に建築された絹糸貿易商フリッツ・エリスマンの私邸が、元町公園内の現在地に移築される[元町1丁目77番地]。現在、1Fには喫茶室が設けられている。

    ▼同年10月3日、東西ドイツ統一。 ▼1991年(平成3年)1月17日、湾岸戦争勃発。 ▼1993年(平成5年)5月15日、Jリーグ開幕。 ▼1995年(平成7年)1月17日、阪神淡路大震災(マグニチュード7.2)。 ▼2ヵ月後の3月20日、東京地下鉄サリン事件発生。 ▼1996年(平成8年)10月、元町自治運営会事務所にパソコン導入。
  • みなとみらい線開通

    ▼2004年(平成16年)2月1日、東急東横線から直通運転する横浜高速鉄道みなとみらい21線が開通し、元町・中華街駅開業。
    全線地下区間で地盤の弱い埋め立て地なため、各駅とも地下4-5階という深い所を走行している。また、横浜駅を含む全6駅がそれぞれのデザインコンセプトを持っているのも特徴。
    元町・中華街駅のコンセプトは“駅はグラフィカルな一冊の本の空間になる”
    ▼2013年(平成25年)3月16日、東急東横線が東京メトロ副都心線、西武池袋線、東武東上線との相互直通運転を開始。
  • 横浜開港150周年

    ▼1859年の横浜開港から150年を迎え、みなとみらい地区を中心に開国・開港Y150という地方博覧会が開かれるも、最終赤字28億円という大失敗に終わる。