本日のブログは、スタッフIが美術展の鑑賞レポートをお届けします。
東京上野にある東京都美術館において、2022年10月18日(火)~12月28日(水)の日程で開催の「展覧会 岡本太郎」を鑑賞してきました。
絵画、立体、パブリックアートから生活用品にいたるまで強烈なインパクトのある作品を次々と生み出し、
日本万国博覧会(大阪万博)の核となる《太陽の塔》のプロデュースを行い、晩年は「芸術は爆発だ!」の流行語とともにお茶の間の人気者にもなった岡本太郎。
本展には、18歳で渡ったパリの青春時代から、戦後、前衛芸術運動をけん引した壮年期の作品群、
民族学的視点から失われつつある土着的な風景を求めた足跡、大衆に向けた芸術精神の発信の数々、さらにアトリエで人知れず描き進めた晩年の絵画群までが集結。
常に未知なるものに向かって果敢に挑み続けた岡本太郎の人生の全貌を紹介する、過去最大規模の回顧展が「展覧会 岡本太郎」です。
「展覧会 岡本太郎」鑑賞レポート
「展覧会 岡本太郎」東京展は、上野にある東京都美術館で開催されており、隣の国立西洋美術館では「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」が開催されていました。
岡本太郎は、戦後日本の芸術家として最も高い人気と知名度を誇る一人でありながら、あまりに多岐にわたる仕事ぶりから、その全貌を捉えることがむずかしい存在でもありました。
「何が本職なのか?」
と聞かれ、
「人間―全存在として猛烈に生きる人間」
と答えた岡本太郎。
師匠もおらず独学で開拓し挑み続けたその人生は、“岡本太郎という芸術”の特質と本質に満ちあふれています。
生きることそのものが芸術であるとした「人生・即・芸術」の言葉通り、1つ1つの岡本作品を単体として鑑賞するのではなく、第1章から6章までの会場全体を通して“人間・岡本太郎”を体感することが本展の真髄です。
6つの章で構成されていると言いましたが、地下1階にある最初の展示室では、「対極主義(岡本太郎が名付けた、自身の表現に通底するもの)」さながら、彼の全仕事の中から選りすぐった作品が、時間軸、テーマ、ジャンルを超えてぶつかり合っています。
つまり、最初の展示室は1章〜6章の時代から選抜された作品が時系列を無視して展開されており、1章が始まるのは、この次の展示室からです。
最初そこが少し戸惑ったので念のためお知らせしておきます(^_^;)
0章 全時代の岡本太郎がぶつかり合う空間
※この「0章 全時代の岡本太郎がぶつかり合う空間」は、僕が勝手に命名しているだけで実際にはありません。
薄暗い展示室に岡本太郎ワールドが広がります。
先述の通り、この展示室は1章〜6章からの選抜作品が展示されており、制作年の時系列はバラバラです。
《森の掟》のタイトルが示すように、弱肉強食の世界に鎮座する巨大な猛獣は、発表当時、多くの人にファシズムの暴力の寓意と受け止められていました。
1979年に開始した人生相談の連載は「にらめっこ問答」と題されるなど、岡本太郎にとって“にらめっこ”とは生命の交歓の瞬間という、とても重要なやり取りであったそうです。
《マスク》1970、《マスク》1970、《マスク》1970、《顔の時計》 1967
大阪万博で有名な《太陽の塔》、その地下展示〈いのり〉に展示するために制作されたこれらのマスクは、万博を訪れた多数の来場者に向かって、人はなぜ生きるのか、なぜ祈るのか、そしてなぜ作るのかといった根本的な問いを投げかけていました。
大阪万博で、これらのマスクとともに展示されていたのが、
《ノン》。
フランス語の「ノン」、つまり否定の言葉。
「人類の進歩と調和」という大阪万博のコンセプトに対して、岡本太郎は《太陽の塔》によって「ノン」を突きつけたと言われています。
これは名古屋のお寺から、寺の梵鐘(ぼんしょう=時を知らせるお寺の鐘)を作って欲しいという依頼を受けて作った作品、《梵鐘・歓喜》。
戸惑いながらも造形的に冒険を優先し、鐘自体が曼荼羅でもある、鳴ることに縛られないユニークな造形が生み出されました。
もやがかかったような筆致と黒くて太い線が目にも見えてくる、《予感》。
さまざまな模様が描かれた空間は、明確な形を伴っていないにもかかわらず、ここから何らかの生命体などに生まれ変わりそうな躍動感に満ちあふれています。
抽象的で無秩序に描かれているのに、全体で見ると秩序が保たれているように見える作品でした。
この《跳ぶ》は、1964年に開催された東京オリンピックの前年に描かれた、オリンピックをテーマにした作品。
特定のスポーツを描くのではなく、運動のエッセンスが凝縮されたものとしての跳躍が主題になっています。
1964年の東京オリンピックと言えば…個人的に好きなのが公式のポスター。
豊臣秀吉の陣羽織に見られる赤と金の華やかで力強い組み合わせが印象的な東京オリンピック第1号ポスターと(写真左)、緻密に計算された躍動感ある構図でオリンピック史上初の写真を使用した第2号ポスター(写真右)、これらをディレクションしたのがグラフィックデザイナーの亀倉雄策氏です。
日の丸というよりは太陽を意識してデザインされた第1号ポスターは大胆でシンプルにデザインされていますが、赤い太陽と5つの輪の間隔など緻密に計算してデザインされています。
そういう緻密さを感じさせないダイナミックな表現に、惹きつけられる魅力があるのかもしてません。
同じ時代に、同じ“東京オリンピック”をアートで表した2人の巨匠、岡本太郎と亀倉雄策。
オリンピックの捉え方と表現方法がまったく異なる点は非常に興味深いですね。
※亀倉雄策デザインの東京オリンピックポスターは本展には一切関係なく、展示もありません。
1948年、正反対の要素を1つの画面に両立させる考えを「対極主義」と岡本太郎は命名しました。
抽象的要素と超現実的要素を矛盾したままにすること。
無機⇔有機
抽象⇔具象
愛⇔憎
美⇔醜
猛烈な不協和音を発するこれらの相反するものを共存させる。
人が歯車に巻き込まれ火花を散らす…といった様子は人を使い捨てにする機械化社会への警鐘かと感じますが…左下には青ネギ(*_*)。
一般的な思考の斜め上をポンと超えていく発想には理解がおよばないどころか、理解することを瞬時にあきらめるくらい“想像の範疇外”の作品が連続します。
陶芸の町 常滑へ壁画に使うモザイクタイルを作りに行ったことがキッカケで制作した、岡本太郎にとって初めての本格的立体作品、《顔》。
これの前年に東京国立博物館で見た縄文土器に衝撃を受けたことも、この作品に影響をしているそうです。
この作品は表裏に顔を持ちます。
制作当初、花入れを作ってみてはと勧められたそうですが、岡本太郎にそんなつもりは微塵もなく、
むしろ枯れ枝やカラーストッキングを生けて作品展に出品したそうです^^;
この《顔》作品は3つあり、1つは川崎市岡本太郎美術館(当作品)、もう1つは常滑、そしてあと1つは岡本家の墓碑になっています。
第1章 岡本太郎誕生−−パリ時代
ぼくはパリで、人間全体として生きることを学んだ。
画家とか彫刻家とか一つの職業に限定されないで、もっと広く人間、全存在として生きる。
『壁を破る言葉』イースト・プレス、 2005年
1930年、18歳の冬に家族とともにヨーロッパに渡った岡本太郎は、単身パリに残り、当時の前衛運動や思想に触れながら芸術家を目指し始めました。
その間に、画廊で見たピカソの作品に強い感銘を受け、翌年、ヴァシリー・カンディンスキー、ピート・モンドリアン、ジャン・アルプなど抽象表現を探求する作家たちが集まる「アプストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造)」協会に最年少の22歳で参加しています。
しかし次第に抽象表現から離れ、決別として《傷ましき腕》を発表し、同協会を脱退。
国際シュルレアリスム・パリ展に出品され、高く評価された作品でしたが、ヨーロッパ滞在中の作品は東京に持ち帰ったのち戦火ですべて消失したとされています。
その後、まわりからの後押しを受けて再度同じ作品を描きました。
制作年が1936年と1949年になっているのはそのためです。
1993年、パリ市内にあるアトリエ村「シテ・デ・フュザン」に居住するデザイナーが、集積所に捨てられていたゴミの中から興味深い1枚の絵画を発見し持ち帰ったことが、“岡本太郎作と推定される3枚の絵画”の発見につながります。
19世紀末から現在に至るまで、芸術家たちの住居 兼 アトリエとして使用されてきた歴史ある「シテ・デ・フュザン」。
ピエール・ボナール、ジャン・アルプ、ジョアン・ミロ、ルネ・マグリット、マックス・エルンスト、シュルレアリスムの詩人ポール・エリュアールなど、多くの芸術家たちがその拠点としてきた場所でもあります。
岡本太郎がここに居住していた記録はありませんが、パリ滞在中の親しい友人であったエルンスト、ミロ、アルプらのゆかりの場所でもあることから、(この3作を検証するために組織された)パリ作品評価委員会は、「岡本太郎が描いたものである可能性がきわめて高いと推察される」と結論づけています。
パリ時代の作品が収められた画集『OKAMOTO』。
パリ時代の作品は、この画集に掲載されている作品のみ存在が知られてきました。
しかしピカソ作品に出会って以来、自身の芸術を確立するまで試行錯誤の時期があったと自ら回想していることから、先ほどの「岡本作品と推定される3作品」は、その“試行錯誤の時期を埋める作品”であることが期待されています。
《傷ましき腕》とともに1949年に再制作された本作《露店》は、1983年、岡本太郎本によりニューヨークのグッゲンハイム美術館へ寄贈されました。
約40年ぶり、ニューヨークからの里帰り展示となります。
第2章 想像の孤独−−日本の文化を挑発する
今日の芸術は、うまくあってはいけない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。
『今日の芸術』光文社、1954年
パリから帰国した岡本太郎は、戦後、灰色のトーンが跋扈する旧態依然とした日本の美術界に接し、その変革を目指して前衛芸術の研究を目的とする「夜の会」を結成しました。
会が立ち上げられたとき偶然アトリエに《夜》が掛けられていたことから「夜の会」と命名されたそうです。
2010年に発見された、人に見せるつもりもなく描かれたであろう、おそらく唯一の自画像。
この頃から抽象と具象、愛憎、美醜など対立する要素が生み出す軋轢のエネルギーを提示する「対極主義」を掲げ、前衛芸術運動を開始していきます。
最初の展示室にあった《重工業》や《森の掟》といった代表作を生み出し、アヴァンギャルドの旗手として世間的にも露出が増えていくのです。
第3章 人間の根源−−呪力の魅惑
芸術は呪術である。
人間生命の根源的渾沌を、もっとも明快な形でつき出す。
人の姿を映すのに鏡があるように、精神を逆手にとって呪縛するのが芸術なのだ。
「呪術誕生」『みづゑ』美術出版社、1964年2月号
前衛芸術運動を推し進める一方、岡本太郎は自らの出自としての日本文化のありかたに目を向けます。
1951年、東京国立博物館で縄文土器に出会い、「驚いた。こんな日本があったのか。いや、これこそが日本なんだ。」と、打ちのめされるような衝撃を受けました。
縄文土器の驚くべき空間感覚に驚愕し、底流にあるすさまじいまでの生命力を直観、そこに借り物ではない「オリジナルの日本」を感知したのです。
1950年代後半になると、かつてパリで学んだ民俗学の視点を活かし全国を旅し始めるように。
やがてフィールドワーク(実施調査)の対象は、東北から沖縄に至る日本各地から、メキシコや韓国など世界へと広がり、その足跡は多くの写真に資料として残されています。
またこの頃から、うねるような動きを持った黒い線が装飾的に画面を覆うようになったり、書の筆致を思わせる呪術性を秘めたような抽象的なモチーフを描くことが多く見られ始めます。
この章では、この時期からその後の《太陽の塔》につながる60年代の呪術的な世界観に触れる、エネルギー満載の作品群が一望できます。
第4章 大衆の中の芸術
芸術は創造である。絵画は万人によって
つくられなければならないのだ。
芸術は大衆のものだ。芸術は自由だ。
「芸術観ーアヴァンギャルド宣言」『改造』改造社、1949年11月号
1950年代は、岡本太郎にとって新しい前衛芸術を推し進める活動と並行して、芸術の外側の世界への発信を始めた時期でもありました。
モザイクタイル
“芸術とは生活そのもの”
そう考える岡本太郎にとって衣食住を含めた人々の生活のすべてが表現フィールドでした。
1952年、耐久性と鮮やかな色彩を持ち、工業生産化が始まったモザイクタイルを初めて用いた作品《太陽の神話》を見た建築家の坂倉準三が、日本橋高島屋地下通路の壁画《創生》を依頼。
これをきっかけに、岡本太郎の表現は画廊や美術館から飛び出し、地下鉄通路や旧都庁舎の壁画、屋外彫刻などのパブリックアートをはじめ、暮らしに根差した時計や植木鉢、新聞広告などの生活用品にいたるまで、大衆にダイレクトに語りかけるものへと広がっていきました。
《太陽の神話》で初めて、太陽というモチーフが顔と1つの人格を持って立ち上がり、のちの《太陽の塔》へと通じるイメージを形成していったそうです。
(左)《月の壁》、(右)《日の壁》
ともに1956年
1957年に竣工した旧東京都庁舎のために制作した高さ6m、幅4.5mの大壁画で、正面玄関の吹き抜けロビーに設置された《日の壁》は建物が取り壊される1991年まで、対となる《月の壁》とともに長らく親しまれました。
(左から)《赤》、《緑》、《青》
いずれも1956年
これらの壁画は、旧都庁舎を設計した建築士の丹下健三から助言を受け、モザイクタイルよりも耐久性の高い陶板が用いられています。
※本展に展示されているこれらの作品は、その原画です。
このときの岡本太郎×丹下健三のタッグが、大阪万博における「床を空中に持ち上げた《大屋根》の真ん中をぶち抜くようにそびえ立つ《太陽の塔》」のタッグにもつながっていくのです。
旧東京都庁舎のための壁画の原画をもとに制作された、都庁庁舎建設中の光景を描いたものとされる作品、その名も《建設》。
壁画としては初めて、素材にFRP(強化繊維プラスチック)が用いられた、《天に舞う》。
新しい作品、新しい素材への飽くなき挑戦で高度経済成長を突き進みます。
一瞬ドキッとする「殺すな」の文字。
ベトナム戦争に反対する市民運動が、ワシントン・ポスト紙上に掲載した反戦メッセージ広告のために揮毫した一語で、戦争の主体があいまいにされていく戦後の平和教育を切り裂くような、岡本太郎らしい直接的な表現です。
会場内に突如現れる、地面に置かれた…突起物?
これらは実際に座って良い”椅子の作品”で、椅子…とは言うものの《坐ることを拒否する椅子》という作品タイトル通り、表面に凹凸があるため座りにくいです。
座り心地の良い椅子は人の前進を止めてしまうと考える岡本太郎にとって、椅子とは「活動的な歩みの中で一時腰をおろすだけのもの。つまり人生の戦いの武器である」とのこと。
凹凸があり坐る人をにらみつける椅子は、「精神的にも肉体的にも人間と対決し、抵抗を感じさせる」というコンセプトが形になった作品です。
“椅子”に対してそういう考えを持って生活したことがない自分からすると…規格外の考え、、、だからこそ、こういう作品や考えに触れられることがおもしろいところでもあります。
本展では、本章と第5章にて、合計6つの《坐ることを拒否する椅子》がありますし、
他にもいろんな種類の椅子が展示されています。
大衆の中の芸術こそ重要と捉えていた岡本太郎は絵を売らず、代わりに日本全国にパブリックアートを創りました。
絵は売ってしまったら2度と民衆の目に触れる気がいなくなるのに対し、「公共の場に立つパブリックアートは、いつでも誰でも無料で楽しめるから」という理由です。
同様に、「生活は遊びだ!」の言葉通り、“生活用品に根ざすデザイン”にも積極的に関わるようになり、
テーブル、椅子、絨毯、ネクタイ、ロゴデザイン、スカーフ、浴衣、振袖、トランプ…といったプロダクトデザインも暮らしの中に送り込んできました。
近鉄バファローズのロゴが岡本太郎デザインだったとは知らなかった!
パブリックアートや工業製品なら、より多くの人が鑑賞できるという考えが通底にあった岡本太郎は周囲の反対をよそにCMなどにも出演しています。
本展でも映像が流されていた当時のマクセルのCMがセンス良かった!
※本作品は撮影NGだったため、YouTubeを共有します。
「芸術は爆発だ!」
最初から最後まで新鮮インパクトなCM。
初めて見たCMでしたが古さをまったく感じさせず、ピアノの屋根を走る岡本作品の映像がシャープで印象深く、工業製品にアートを感じた瞬間でした。
CMや広告に積極的だった岡本太郎にも出演するにあたって条件があり、「商品名は言わない」「自分の言いたいことだけ言う」点を徹底していたそうです。
第5章 ふたつの太陽−−《太陽の塔》と《明日の神話》
太陽は人間生命の根源だ。
惜しみなく光と熱を
ふりそそぐこの神聖な核。
われわれは猛烈な祭りによって太陽と交歓し、その燃えるエネルギーにこたえる。
《太陽の塔》銘板より
高さ70mの建築《太陽の塔》と、幅30mの壁画《明日の神話》。
本展には1/50スケールの《太陽の塔》と、1/3スケールの《明日の神話》が展示されています。
岡本太郎が遺した最大の“彫刻”と最大の“絵画”は、ともに岡本芸術の集大成であり最高傑作というだけでなく、2作はほぼ同時のタイミングで構想され、ともに「太陽」をキーワードとする双子のような存在です。
1967年7月、大阪万博テーマプロデューサーの受諾会見を行った岡本太郎は、翌日から2ヶ月におよぶ中南米への取材旅行に赴きます。
この旅の間に両作品の構想を進め、帰国直後に《太陽の塔》の最終デッサンを描き、同じ日に《明日の神話》の最初の油彩下絵を描きました。
2つの大作の骨格が同時に固まった瞬間です。
《太陽の塔》
(出典:書籍「入門!岡本太郎」)
大阪万博において、丹下健三をプロデューサーとする建築チームは、シンボルゾーンを覆う巨大な屋根を持った基幹施設のプランを制作。
これを見た岡本太郎は、この合理的な近代建築に対決する、非合理的存在が必要であると直感しました。
水平に広がる《大屋根》を突き破り70mの高みから会場を睥睨する《太陽の塔》はインパクト絶大で、万博随一のアイコンとなって日本全国に伝播しただけでなく、制作から50年経った今も変わらず愛され続けています。
高さ70m、基底部の直怪20m、腕の長さ25m。
頭から下が鉄筋コンクリート、上が鉄骨のハイプリット構造で作られており、
《太陽の塔》内には、単細胞生物から旧石器時代の人間までの33種の生きものが高さ41mもの1本の樹にびしっと“生って(なって)”います。
頭部に未来を表す[黄金の顔]、腹に現在を表す[太陽の顔]、背に過去を表す[黒い太陽]の3つの顔を持ち、
(出典:書籍「入門!岡本太郎」)
万博当時は正面がメインゲートを、背面が「お祭り広場」を向いていたものです。
万博開催後、パビリオンはほぼすべて撤去されましたが、《太陽の塔》は1975年に永久保存が決まり、と鉄鋼館(現EXPO’70パビリオン)とともに整備された万博記念公園に今なお燦然と輝き続けています。
本展では1/50スケールの《太陽の塔》が展示されており、
背面にはもちろん[黒い太陽]も。
《明日の神話》
《太陽の塔》とほぼ同時に構想され、“小さな太陽”とも称される原爆が炸裂する瞬間を描いた、岡本太郎の最大にして最高の傑作とも称される横30m・縦5.5mの巨大壁画《明日の神話》。
猛烈な破壊力を持つ禍々しい狂気、むくむくと増殖する凶悪なきのこ雲、逃げまどう生きものたち。
その下で燃え上がる骸骨。
まさに凄惨で残酷な一瞬。
しかしながら、この作品は地獄の瞬間を見せつけている絵ではありません。
死と絶望と破壊を撒き散らすのではなく、人間はその残酷な悲劇の上に立ち、乗り越えることができる…そしてその先に「明日の神話」が生まれるというメッセージ。
タイトル《明日の神話》には、人類の未来への期待や希望が込められているのです。
そもそもこの壁画は、メキシコオリンピックの開幕に向けて中南米最大のホテルを建設中だった実業家から依頼を受けて制作されたもので、大阪万博の《太陽の塔》を制作するかたわら、スケジュールの合間を縫うように現地メキシコに足を運んで作品の完成を目指していました。
1969年に完成させるも、資金繰りの行き詰まりからホテルは完成することはありませんでした。
やがて《明日の神話》は取り外され長らく行方不明となっていましたが、2003年、メキシコの資材置き場で大きく損傷した状態のまま発見されます。
(出典:書籍「入門!岡本太郎」)
日本に持ち帰り、約1年半におよぶ懸命な修復作業を経て、作品は復元。
作品完成時の副題は《広島と長崎》とされていて、修復完了後、永久保存の展示場所として《太陽の塔》がある大阪府吹田市、原爆被爆地である広島市および長崎市の各市民団体、渋谷区がそれぞれ誘致運動を行いました。
その中から、パブリックアートとして鑑賞目的以外の人がたまたま作品に出会うのに適した場所、と判断された渋谷駅に決定。
渋谷マークシティ連絡通路
2008年11月17日、渋谷マークシティ内の京王井の頭線渋谷駅とJR渋谷駅を結ぶ連絡通路に恒久設置されました。
いざ設置してみると、本作の設置が予定されていたかのように、見た目では分からないほど、ほんのわずか斜めにしただけでピッタリおさまったそうです。
《明日の神話》が制作されたのは日本ではなくメキシコ。
日本ではない世界のどこかで、原爆の瞬間を捉えた絵を描こうとしたのは、戦争の愚かさや原爆(不要な力)の排除をメッセージとして世界にも発信したかったのでは…と個人的に感じました。
ずっと眠っていた遠く離れたメキシコの地から日本に呼び戻されて復活した《明日の神話》は、現在も毎日約30万人の通行人を見守っています。
第6章 黒い眼の深淵−−つき抜けた孤独
面白いねえ、実に。オレの人生は。
だって道がないんだ。 眼の前にはいつも、なんにもない。
ただ前に向かって身心をぶつけて挑む、瞬間、瞬間があるだけ。
『岡本太郎』平凡社、1979年
大阪万博を経て岡本太郎の存在はより広く大衆に受け入れられるようになりました。
なかでも、1953年の放送開始当初から出演していたテレビでは、1981年の「芸術は爆発だ!」と叫ぶCMをはじめ数多くの番組に登場。
日本で最も顔を知られる芸術家となっていくとともに、キャラクター含め、言葉の数々はお茶の間のギャグとしてすら受け入れられるようにもなっていったのです。
しかしながら岡本太郎は、ただ大衆的な認知度を高めただけではありません。
晩年、最晩年になっても自らの芸術をダイナミックに追求し続けていきました。
「老いることは、衰えることではない。
年とともにますますひらき、ひらききったところでドウッと倒れるのが死なんだ。」
こんな言葉を残していた、岡本太郎。
最後の章の、最後のブースには、その言葉を象徴するような最後の作品が飾られています。
絶筆となった未完の作品、《雷人》。
ふんだんに使われた原色、警告色かのような赤・黄色・黒のほとばしる情熱、今にもキャンバスの外に飛び出しそうなエネルギーの塊…
限界まで走りきってドッと倒れることが死であるという岡本太郎の思想がこの絵に集約・体現されている…そう感じずにはいられません。
この《雷人》が展示されているブースには、もう1作品あります。
一見、穏やかな休息のイメージを漂わせる作品に見えますが、中心で自分を2つに引きちぎっているようにも見える、《午後の日》という作品です。
2つの表情を持ちながら本当の顔は隠しているようにも見えるし、角度によってもまた異なる表情を持っているように見える不思議な作品でした。
複合的なイメージを宿した岡本太郎の自画像のようなこの作品は、多磨霊園に眼むる彼の墓碑にもなっています。
最後の章の同じブースに設置された、“生”を集約した《雷人》と、“死”を見守る《午後の日》…最大限の推進力で生と死の分水嶺まで走りきった“岡本太郎の最期”を体感できたような気がしました。
作品をいろんな角度から何度も観たり…2作品しかないはずのこのブースに、気づいたら25分以上滞在していましたね…。
グッズショップ
グッズショップには、相当な数のグッズがところ狭しと並んでいました。
そもそもの人気に加え、グッズとしてデザインしやすい作品が多いことも起因しているのではないでしょうか。
売場面積や品数に比例するように、購入者も一般的な美術展より多く、かなりにぎわっていました。
いつも必須で購入するクリアファイルとともに、岡本太郎の入門書を購入。
ひたすら読んでいます。
「展覧会 岡本太郎」まとめ
「展覧会 岡本太郎」は、岡本芸術の特質と本質、さらにはその底流にある人間・岡本太郎を、展覧会場の空間体験を通して1人1人が感知する体感型の展覧会です。
本展を4時間以上かけて鑑賞して感じたのは、「目に見えない正のエネルギーが会場に充満している」ということでした。
それは大きくて色彩豊かな絵画作品や突飛さを感じるほどの彫刻作品から発せられているのか、岡本太郎を観に来ている人たちの意識から発せられているのか…言葉では表現しきれない気配が滞留していた気がします。
肌感覚のEnergy Flow。
グッズショップで購入した本に岡本太郎記念館館長がこう書いていました。
太郎が遺した膨大な作品群から最重要作をひとつ選べ。
こう問われたら、ぼくなら迷わず『人間・岡本太郎』と答えます。岡本芸術最大の作品は、岡本太郎という“存在そのもの”だと考えるからです。太郎が生涯をかけてつくりあげた唯一最大の作品、それが『岡本太郎』です。
岡本太郎記念館には連日多くの若者が来館するそうです。
彼らは、ただ絵を見に来ているわけではなく、岡本太郎の気配に包まれ、息吹を感じながら作品の向こうにいる「人間・岡本太郎」と語らうために来ているのではないかとも書いています。
「会場内で感じた“目に見えないエネルギー”はこれのことか!?」と得心したものです。
1番最後に展示されている《雷人》の音声ガイドで流れていた言葉も、心に残った言葉の1つ。
絵はクイズのように隠された答えを当てるために見るのではない。
いいと思った分だけ、あなたは分かったのです。積極的な心構えでなければ本当の鑑賞はできない。
創造と鑑賞は永遠の追っかけっこ。
分かったようなポーズを取る必要もないし、鑑賞能力がないと悲観したり自分と無縁だと敬遠してはいけない。
膨大な展示作品の中には意味が分からない絵や、自分の知識量では理解できない作品解説などが多く存在し、それに直面するたびほんの小さな焦りが積算されていく感覚が僕の中にありました。
この言葉は、その“感覚”を一掃してくれた気がします。
芸術鑑賞は積極的に理解しようする姿勢があれば充分で、今後は絵が描かれた当時を想像しその時代を感じながら楽しく前のめりに鑑賞すればいいという気づきになりましたね。
展覧会場は、当時に時間旅行できるタイムマシンと位置づけて♪
この記事を書いた人:スタッフI
▼同時期に隣の国立西洋美術館で開催していた展覧会
「展覧会 岡本太郎」開催概要
■展覧会名
展覧会 岡本太郎
Okamoto Taro: A Retrospective
■会場
東京都美術館(東京都台東区上野公園8-36)Googleマップ→
■会期
2022年10月18日(火)~12月28日(水)
休館日:月曜日
■開館時間
9:30~17:30、金曜日は20:00まで
※入室は閉室の30分前まで
■チケット料金 ※東京展の情報です。
一般1,900円、大学生・専門学校生1,300円、65歳以上1,400円
※高校生以下は無料(日時指定予約が必要です)
※身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳・被爆者健康手帳をお持ちの方とその付添いの方(1名まで)は無料(日時指定予約は不要です)
※未就学児は日時指定予約不要です
※高校生、大学生・専門学校生、65歳以上の方、各種お手帳をお持ちの方は、いずれも証明できるものをご提示ください
■公式サイト
https://taro2022.jp/
「展覧会 岡本太郎」巡回情報
【大阪展】
大阪中之島美術館(大阪府大阪市北区中之島4-3-1)Googleマップ→
会期:2022年7月23日(土)~10月2日(日)
【東京展】
東京都美術館(東京都台東区上野公園8-36)Googleマップ→
会期:2022年10月18日(火)~12月28日(水)
【愛知展】
愛知県美術館(愛知県東区東桜1-13-2)Googleマップ→
会期:2023年1月14日(土)~3月14日(火)